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飢餓・飢饉(飢きん)の種類一覧


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飢餓・飢饉(飢きん)の種類一覧の概要

飢饉とは自然現象や人為的要因により食料が不足となり、人々が飢えることです。

飢餓とは食料の不足から栄養失調となり、正常な体長維持が長期的に困難となっている状態です。

飢饉や飢餓の原因には洪水・火山の噴火・虫害・日照り・作物の病気などの自然災害から、戦争や紛争・肥料や灌漑用水などの不足・農業政策の失敗・農作物の必要以上の転用や売買などの人的原因があります。
 
 
 
 
 
 
 
飢餓・飢饉(飢きん)の種類一覧
名称 説明
養和の飢饉 1181年から1182年にかけて発生した飢きんで、前年の1180年の降水量が少なかったことによる旱魃(かんばつ)や、大風・洪水などの自然災害、 源氏・平氏による戦(治承・寿永の乱、源平合戦)、福原遷都などの影響により起こったとされています。
この飢きんは「方丈記」「源平盛衰記」などにも記述され、京都だけでも4万2300人以上が亡くなったとされています。
寛喜の飢饉 1231年に発生した飢きんで、時期はずれの降雪や、長雨による冷夏、台風、冬の温暖などにより農作物が実らなかったことが原因とされています。

この飢きんでは全国民の三分の一が亡くなったと言われるほどの規模でした。
寛喜の飢饉は「百錬抄」や「明月記」に記されています。

また、寛喜の飢饉の数年前から飢きんが続いており、1229年には飢きんが原因で元号が「安貞」から「寛喜」改元されています。
長禄・寛正の飢饉 1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)にかけて発生した飢きんで、全国的な旱魃・台風・大雨・水害・害虫・疫病などの自然現象や、 享徳の乱・畠山氏の家督争い・長禄合戦などの戦、将軍足利義正の花の御所の改築などが原因とされています。

長禄・寛正の飢饉では全国的に被害が出て、京都だけでも8万2千人以上がなくなったとされています。
寛永の大飢饉 寛永の大飢饉は東日本海側に被害が多く、「江戸四大飢饉」に数えられています。

1642年(寛永19年)から1643年(寛永20年)にかけて発生した飢きんで、 1641年から日照りや旱魃(かんばつ)・大雨・長雨・洪水・虫害と様々な自然災害が発生し農作物が不作となり、 よく1642年から飢きんとなりました。

この飢きんで幕府と将軍徳川家光は、煙草の作付けの禁止、身売りの禁止、雑穀を使用したうどん・そうめん・饅頭などの製造禁止、 救済小屋の設置などの飢きん対策を全国的に行いました。
享保の大飢饉 享保の大飢饉は中国・四国・九州地方に被害が多く「江戸四大飢饉」に数えられています。

1732年(享保17年)に発生した飢きんで、前年の天候不良や、長雨による冷夏、イナゴやウンカなどによる害虫被害で農作物に影響が発生して、中国・四国・九州地方、とりわけ瀬戸内海一帯に大被害が発生しました。

被害のあった地域での米の収穫量は前年の27%程度と不作になり、餓死者は1万2千人以上に上ったとされています。
天明の大飢饉(江戸四大飢饉) 天明の大飢饉は東北地方に被害が多く「江戸四大飢饉」に数えられています。

1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢きんで、日本では最大級の飢きんとされています。
天明の大飢饉が発生した原因としては、1783年4月13日の岩木山の噴火や同年8月3日の浅間山の噴火により冷害となり農作物に壊滅的な被害を与えました。
また1873年6月3日にはアイスランドのラキ火山とグりームスヴォトン火山が噴火したのも、冷夏に大きく影響しているとされています。

この飢きんでは弘前藩だけで10万人近い死者を出し、全国では数十万人の被害者が出たとされています。
天保の大飢饉(江戸四大飢饉) 天保の大飢饉は東北地方の陸奥国・出羽国に被害が多く「江戸四大飢饉」に数えられています。

1833年(天保4年)から1836年(天保7年)または1839年(天保10年)まで続いた飢きんです。

天保の大飢饉の原因は洪水や冷害とされ、70万人以上に被害が出て各地で百姓一揆や打ちこわしが発生しました。
元和5年の飢饉 1619年に発生した飢饉です。
延宝3年の飢饉 1675年に発生した飢饉です。
延宝8年の飢饉 1680年に発生した飢饉です。





元禄の飢饉 1691年~1695年に発生した飢饉です。
長雨と冷夏から東北地方を中心に飢饉が発生し、数万人がなくなりました。
宝暦の飢饉 1753年~1757年に発生した飢饉です。
冷夏により農作物に影響が発生し、東北地方を中心に数万人が亡くなりました。
延宝の飢饉 1674年~1675に発生した飢饉です。
天和の飢饉 1682年~1683年に発生した飢饉です。
昭和東北大飢饉 1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)にかけて発生した飢きんで、東北地方に吹く冷たく湿った北東風「やませ(山背)」が原因とされています。

この昭和東北大飢饉で苦しんだ国民をみて石原莞爾らが満州事件を起こすきっかけになったとされています。

やませを原因とした冷害による飢きんは明治以降も1872年・1902年・1905年・1910年・1913年・1921年・1931年・1933年に発生し、 1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢きんは日本史上最後の飢きんとされています。
ジャガイモ飢饉 19世紀のアイルランドで発生した飢きんで、1845年から1849年の4年間に主食であったジャガイモに疫病が流行し食糧難となりました。

この飢きんでは餓死と疫病で100万人近い人が亡くなったとされています。
1315年から1317年の西ヨーロッパ飢饉 1315年から1317年にかけて西ヨーロッパで発生した飢饉で、大雨や冷害から、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、スカンジナビア半島、バルト海沿岸の国の農作物に影響がでて、 数百万人が亡くなったとされています。
夏のない年 1816年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カナダが冷夏となり農作物に壊滅的な影響が出て、ヨーロッパだけで約20万人が餓死した飢きんです。

この飢きんの原因は、太陽活動の低下時期であったこと、1815年にインドネシアのタンボラ山が噴火したことなどが影響したとされています。
ホロドモール 1932年から1933年にかけてウクライナとウクライナ人の住む地域で発生した飢きんです。

農産物は全てソビエト連邦の人民に属するというソビエト連邦からの異常な食料調達命令でにより発生したもので、 ホロドモールの被害者は250万人とも1000万人を超えるとも言われています。
レニングラード包囲戦いによる飢きん 1941年9月8日から1944年1月18日にかけて発生したソビエト連邦とドイツの戦闘で、 ドイツ軍がソビエト連邦第二の都市レニングラードを約900日間包囲したことにより餓死者が60万人から100万人以上発生しました。
大躍進政策 中華人民共和国で1958年から1960年までに毛沢東主導で行われた農工業の改革で、四害駆除運動政策でと呼ばれるハエ・カ・ネズミ・スズメを駆除したところ、 農作物の害虫となるイナゴやウンカなどが大量発生してしまい農作物に影響が出て飢きんとなりました。

この大躍進政策にともなう餓死者は数百万から数千万とも言われています。
エチオピア大飢饉 エチオピアで数度にわたり発生した飢きんで、1888年から1892年に「Great Ethiopian Famine」と呼ばれる国民の三分の一が餓死した飢きん、 1972年から1973年に約1万人が餓死した飢きん、1984年から1985年に約100万人が餓死した飢きんなど、10回以上の飢きんが発生したとされています。
バングラデシュ飢饉 1974年の1月から7月にかけて発生した飢饉で、サイクロンや洪水・旱魃(かんばつ)等で約100万人が亡くなったとされています。
インドの飢きん インドでは古くから飢きんが発生しており、1770年のベンガル飢きんで犠牲者約1000万人、1800年から1825年にかけての飢きんで犠牲者約100万人、 1826年から1850年の飢きんで犠牲者約40万人、1851年から1875年の飢きんで犠牲者約500万人、1876年から1900年にかけての飢きんで犠牲者約1600万人、 1943年のベンガル飢きんで犠牲者約300万人などがあります。
 

 




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