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日本のミイラ・即身仏・即身佛の一覧


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日本のミイラ・即身仏・即身佛の一覧の概要

ミイラとは自然的または人為的に遺体が乾燥され、数百年から数千年に渡って原型をとどめている物です。

即身仏とは人間が瞑想を続けたままで絶命しミイラとなることで、真言密教の入定という修行の一つにもなっていました。
 
 
 
 
 
 
 
日本のミイラ・即身仏・即身佛の一覧
名称 説明
即身仏としてのミイラ
無際大師 広東省の生まれとされており、本名は石頭希遷
中国の湖南省南岳の南寺で790年に91歳で入定したとされています。 辛亥革命で南寺が焼かれた際に日本の研究者の山崎彪氏によって日本に運び出されました。
現在は神奈川県横浜市鶴見区の總持寺に安置されています。
弘智法印 1363年(貞治2年)10月2日に82歳で入定したとされています。
日本に現存する即身仏はほとんどが江戸時代以降のものですが、 弘智法印の即身仏は江戸時代以前となっています。
戦国時代には安置されていた即身仏が兵士の槍に付かれるなどの事件もあったようです。 なお、この槍で付いた兵士は後悔し自害をし、その首が即身仏の脇に置かれていたときもありました。 現在は新潟県長岡市寺泊野積の西生寺に安置されています。
弾誓上人 1613年(慶長18年)5月23日に62歳(または63歳で入定したとされています。
弾誓上人は阿弥陀寺を立て、阿弥陀寺に4年在住し修行をおこないました。
現在は京都府京都市左京区大原古知原の阿弥陀寺に安置されています。
本明海上人 1683年(天和3年)5月5日に61歳で入定したとされています。
入定前に「入定後3年3ヶ月したら入定した塚を開いてほしい、即身仏になっているはずだから」と遺言を残し、 実際に塚を開いたところ即身仏になっていたとされます。
現在は山形県鶴岡市東岩本の本明寺に安置されています。
宥貞法印 1683年(天和3年)12月23日に92歳で入定したとされています。
当時流行していた疫病を治めるために自ら石棺の中に入り入定ししました。
現在は福島県石川郡浅川町小貫の貫秀寺に安置されています。
舜義上人 1686年(貞享3年)2月15日に78歳で入定したとされています。
石棺の中にはいり入定し、「入定後3年後に石棺を開けて欲しい」と遺言を残しましたが、 しかし恐れ多く誰も開ける事は無く、数十年後に当時の住職の夢枕に舜義上人が立った為石棺が開けられたと言われています。
現在は茨城県桜川市本郷の舜義上人に安置されています。
全海上人 1687年(貞享4年)1月7日に85歳で入定したとされています。
全海上人は生前に阿賀野川の危険箇所を掘削するなどの功績をたたえられて即身仏として即身仏として奉ることを許されました。
現在は新潟県東蒲原郡阿賀町豊実甲の観音寺に安置されています。
心宗行順法師 1687年(貞享4年)に45歳で入定したとされています。
現在は長野県下伊那郡阿南町新野の心宗行順法師に安置されています。
忠海上人 1755年(宝暦5年)2月21日に58歳で入定したとされています。
地中約3mの深さに石室を作りそこで入定しました。 入定後3年3ヶ月後に掘り起こしたところ即身佛(ミイラ)になっていたとされています。
現在は山形県酒田市日吉町二丁目の海向寺に安置されています。
秀快上人 1780年(安永9年) 3月21日に62歳で入定したとされています。
平成2年に学術調査が行われ破損していた即身佛を修復し、再び石棺の中に納められました。 現在は新潟県柏崎市西長島鳥甲の真珠院に安置されています。





真如海上人 1783年(天明3年)8月14日に96歳で入定したとされています。
入定後3年3ヶ月してから掘り起こされ即身仏となりました。
現在は山形県鶴岡市大網の大日坊に安置されています。
妙心法師 1817年(文化14年)もしくは1815年(文化12年)に36歳で入定したとされています。
以前は山梨県にありましたが明治頃に生まれ故郷の岐阜県に移されました。
現在は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原の横蔵寺に安置されています。
円明海上人 1822年(文政5年)5月8日に55歳で入定したとされています。
入定後3年3ヶ月してから掘り起こされ即身仏となりました。
現在は山形県酒田市日吉町二丁目の海向寺に安置されています。
鉄門海上人 1829年(文政12年)12月に62歳で入定したとされています。
鉄門海上人は武士と喧嘩をし殺してしまい、注連寺に逃げ出家しました。 その後、迎えに来た女郎に自分の陰嚢を切って渡したとも言われています。 (鉄門海上人の陰嚢は鶴岡の南岳寺に保管されているそうです)
また江戸で眼病が流行った際には自らの左眼球をくり抜き湯殿山大権現に捧げたとされています。
現在は山形県鶴岡市大網の注連寺に安置されています。
光明海上人 1854年(嘉永7年)1月24日に入定したとされています。入定した際の年齢は不明となっています。
光明海上人が入定時に言ったとされる「百年たったら掘りだしてほしい」との言い伝えを元に、入定後124年たった昭和53年10月に発掘し掘り起こされました。
現在は山形県西置賜郡白鷹町黒鴨の蔵高院に安置されています。
明海上人 1863年(文久3年)3月5日に44歳で入定したとされています。
現在は山形県米沢市簗沢小中沢の明寿院に安置されています。
鉄龍海上人 1881年(明治14年) 62歳で無くなり、即身仏となりました。
鉄龍海上人は喧嘩で友人を殺し自殺しようとしているところを南岳寺住職・天竜海に救われ弟子となります。
また、目の病気が流行した際には自分の左目をくり抜き願掛けを行いました。
1881年(明治14年)10月28日若しくは1878年(明治11年)に病死後に即身仏(ミイラ)として作られてとされています。
現在は山形県鶴岡市砂田町の南岳寺に安置されています。
仏海上人 1903年(明治36年)に76歳で入定したとされています。
入定後30年立ったら掘り起こしてくれと遺言を残しましたが、墳墓発掘禁止令により発掘が出来なかった為、昭和36年に村上市教育委員会によって掘り起こされました。
日本で最後の即身仏となっています。
現在は新潟県村上市肴町の観音寺に安置されています。
奥州藤原氏のミイラ
藤原清衡 奥州藤原氏の祖で、大治3年7月13日(1128年8月10日)に72歳で亡くなりミイラとなりました。
現在は中尊寺金色堂・清衡壇に安置されています。
藤原基衡 奥州藤原氏第2代当主で、保元2年3月19日(1157年4月29日)に52歳で亡くなりミイラとなりました。
現在は中尊寺金色堂・基衡壇に安置されています。
藤原秀衡 奥州藤原氏第3代当主で、文治3年10月29日(1187年11月30日)に66歳で亡くなりミイラとなりました。
現在は中尊寺金色堂・秀衡壇に安置されています。
藤原泰衡 奥州藤原氏第4代当主で、文治5年9月3日(1189年10月14日)に23歳で亡くなりミイラとなりました。 なお残っているのは頭部だけとなっております。
現在は中尊寺金色堂・秀衡壇・首桶内に安置されています。
その他のミイラ
梅唇尼 義経の家臣の佐藤兄弟の母の梅唇尼のミイラとされています。 しかし、梅唇尼のミイラという確証は無いようです。
現在は山形県米沢市駅前2丁目常信庵に安置されています。
円通寺の子供ミイラ 茨城県笠間市大田町の円通寺に安置されている子供のミイラです。
このミイラの子供は江戸時代末期に、熱病のため3歳もしくは4歳で亡くなった男の子と言われています。
現存していないミイラ
岑海上人 山形県鶴岡市の注連寺に即身仏として安置されていましたが、明治21年の火災により焼失してしまいました。
淳海上人 新潟県津川町の玉泉寺に即身仏として安置されていましたが、明治13年の火災により燃えてしまいました。
現在は骨のみが残っているとされています。
萬蔵 宮城県白石市の萬蔵稲荷神社に安置されていましたが、大正10年頃に持ち出された後行方が分からなくなっているようです。
津軽承祐公 青森県弘前市の長勝寺に津軽承祐公のミイラが安置されていましたが、平成7年に火葬されました。
津軽承祐公のミイラは昭和29年の墓地移転時に発掘した際に発見されたと言われています。
 

 







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