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ロシアとソビエト連邦(旧ソ連)の領土問題と国境問題の一覧


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ロシアとソビエト連邦(旧ソ連)の領土問題と国境問題の一覧の概要

領土問題とは国家間である地域の領有についての争いです。
領土問題が発生すると通常は当事国同士で解決を図りますが、解決が困難な場合には国際司法裁判所へ付託することが出来ます。

ロシア及びソビエト連邦は、第二次世界大戦前後やソビエト連邦崩壊などの際に周辺国や衛星国との間に数多くの領土問題や国境問題を抱えていました。
しかし、近年のロシアは多くの領土問題を解決し、残す領土問題は日本との北方領土問題など僅かとなっています。
 
 
 
 
 
 
 
ロシアとソビエト連邦(旧ソ連)の領土問題と国境問題の一覧
名称 説明
北方領土 北方領土とは 択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島の総称で、現在ロシアが実効支配しており日本は返還を求めています。
また北方領土における領土問題を「北方領土問題」と呼んでいます。

日本は古くから北方領土を統治しており、1855年に日露和親条約により択捉島と得撫島の間を両国の国境線とし、 後の1875年の樺太・千島交換条約において千島列島の占守島までを日本領、カラフトをロシア領としました。

第二次世界大戦後の1946年1月29日にGHQ指令第677号により南樺太・千島列島・歯舞・色丹における日本の行政権が停止され、 同年2月2日にソ連は南樺太と千島列島を1945年9月20日にさかのぼって国有化宣言をし、 1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄しました。

北方領土は1991年4月に来日したゴルバチョフ大統領により領土問題として公式に認められ、現在も日本とロシア間で返還交渉が進められていますが、 進展は有りません。

なお、領土の返還に関しては「四島返還論」「二島返還論(歯舞・色丹島)」「三島返還論(歯舞・色丹島・国後島)」 「面積二等分返還(歯舞・色丹島・国後島と択捉島の25%)」「共同統治」「千島列島全島返還」などの案が挙がっています。

中国は北方領土を「日本の領土であるが、ロシアが実効支配している地域」という立場を取っています。
千島列島 千島列島とは北海道の北東部の根室海峡からカムチャッカ半島南部の千島海峡にある列島で、 現在はロシアが実効支配しておりロシアではクリル列島とも呼ばれています。

千島列島のうち南千島の択捉島と国後島は日本がロシアに対して返還を要求している北方領土に含まれています。

千島列島は1875年の樺太・千島交換条約において日本の領土となっていましたが、1951年のサンフランシスコ講和条約で 日本は領有権を放棄しました。
しかし、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していないため、日本側は千島列島の帰属は未確定で、 1855年に日露和親条約による「択捉島と得撫島の間を両国の国境線」であるという立場を取っています。
南樺太 南樺太(南サハリン)とは北海道の北部にあるカラフト島の北緯50度以南を指します。

南カラフトは1945年まで大日本帝国が領有し樺太庁が置かれていましたが、第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約において 日本は放棄をしました。
しかし、サンフランシスコ講和条約にロシアは調印しておらず国際法上は帰属未定地となっていますが、 現在はロシアが実効支配しています。
トゥーズラ島 トゥーズラの紛争、トゥーズラ岬の紛争

トゥーズラ島は黒海とアゾフ海の間のケルチ海峡にある島で、面積は約3キロ平方メートルあります。

トゥーズラ島の有るクリミア州は1941年1月7日に旧ロシア連邦に編入しましたが、 1991年のソ連崩壊に伴いウクライナの独立後ウクライナの領土となりました。
しかし、トゥーズラ島はケルチ海峡の船舶の航行や周囲の領海権に大きく影響を及ぼす地域であることから、ロシアとウクライナ間で領土問題となり、 ロシアが砲台や堤防の建築を行いました。

2005年7月にロシアはトゥーズラ島及びその周囲の海域はウクライナに属すると承認し、トゥーズラ島はウクライナ領土となりました。
ノルウェーとの大陸棚問題 ロシアとノルウェーは北極圏に有るバレンツ海と北極海の大陸棚の境界について40年近くに渡り争って来ましたが、 2010年4月27日に均等分割による境界画定で合意し、 2010年9月10日に「バレンツ海と北氷洋における海域画定と協力に関する条約」に調印し、 ロシアとノルウェー2国の領海と大陸棚が定められました。
クリミア自治共和国・クリミア共和国 クリミア共和国は、ウクライナに有る半島で黒海に面しています。
人口は約200万人で、面積は約3万6100平方キロメートルとなっています。

クリミアはウクライナが領有しておりセバストーポリ特別市意外の地域がクリミア自治共和国となっていましたが、 3014年3月11日にクリミア自治共和国の議会が独立し「クリミア共和国」となり、3月21日にロシアに編入し ロシア連邦クリミア連邦管区となりました。(2014年クリミア危機)
しかし、アメリカやEU諸国はロシアのクリミア併合を認めておらず、現在も問題となっています。
ラトビアとの国境問題 バルト三国の1つであるラトビアとロシアは、ロシア西部プスコフ州プイタロボ地区の領有について 国境問題となってました。

しかし、EUなど各国の仲介があり、ラトビア側が領有を放棄することで決着を付け 2007年3月27日にロシアと国境画定条約を調印しました。

この調印によりロシアとEUとの境界線も定められました。
エストニアとの国境問題 バルト三国の1つであるエストニアとロシアは、ロシアのプスコフ州西部ペチョールィ (ペツェリ、ペチョリ)地区の領有について国境問題となってました。

しかし、EUやNATO加盟国の仲介があり、旧ソ連時代の国境線に従って両国国境を画定する事で決着を付け 2014年2月18日にロシアと国境画定条約を調印し、エストニアはペチョールィ地区を放棄しました。
中ソ国境紛争 中ソ国境紛争とは1969年3月2日と15日に、アムール川の支流のウスリー川の中州の ダマンスキー島(中国名:珍宝島)を巡って旧ソ連と中国との間に発生した紛争です。

後の1991年5月16日に中ソ国境協定(中露東部国境協定)、1994年には中露国境協定(中露西部国境協定) が結ばれ、2004年10月14日に最終的な中露国境協定が結ばれた事により、 2008年7月21日に中国とロシアの外相が議定書に署名し国境が画定しました。

最終的な国境はアムール川とウスリー川の合流点部分を二等分し、タラバーロフ島と大ウスリー島の西半分を中国側に、 大ウスリー島の東部はロシアの領土となりました。

なお、ロシアと中国の国境問題には1858年5月28日に結ばれた「アイグン条約」 (アムール川左岸をロシアに、ウスリー川以東の外満州をロシアと清国の共同管理地とするもの)や、 1860年11月14日に結ばれた「北京条約」(アイグン条約の再確認と共同管理地のロシアへの移管、 ハバロフスクやウラジオストク地域のロシアの領有)などが有ります。





日ソ国境紛争 1930年代に日本(満州)とソ連間で発生した国境問題で、「ノモンハン事件」「乾岔子島事件」「張鼓峰事件」など、 など、数多くの軍事衝突が発生しましたが、1941年に成立した日ソ中立条約により大規模な軍事衝突は無くなりました。

しかし、日本の戦況が悪化すると再度国境紛争が発生し「五家子事件」「虎頭事件」「光風島事件」 「モンゴシリ事件」などの軍事衝突が起こりました。
冬戦争に関連したフィンランドとの領土問題 1939年にソ連はフィンランドに対して「カレリア地峡の国境線の後退」「フィンランド湾のいくつかの島の割譲」 「バルト海に面したハンコ半島の租借」などを要求しました。

この要求をフィンランド側が拒否した事によりソ連はフィンランドに対し宣戦布告し「冬戦争」が勃発。
冬戦争は1940年3月13日に停戦となり「モスクワ講和条約」が結ばれましたが、 フィンランドは国土の10%近い「カレリア地方の割譲」「サッラ地区の割譲」「フィンランド湾の4島の割譲」 「ハンコ半島と周辺の島の30年の租借」などの条件をのみました。
継続戦争に関連したフィンランドとの領土問題 継続戦争は1941年6月25日にソ連とフィンランド間で起こった戦争で、1944年9月19日に終結しました。

フィンランドは継続戦争の前半に「冬戦争」でソ連に奪われた領土を奪取しましたが、 ソ連の反撃に合い「国境線を冬戦争後のものに戻す」「フィンランド湾の要衝ポルッカラの租借」 「ペツァモ地方(ペツァモ州、ペチェンガ地区)の割譲」などの条件を盛り込んだモスクワ休戦協定を結びました。
第二次世界大戦におけるポーランドとの国境問題 ポーランドは1939年8月に独ソ不可侵条約の秘密条項によりドイツとソビエトに分割され、 1951年にはソビエト主導のポーランド人民共和国に対し、ソビエトはポーランドの東部を併合し、ドイツ東部をポーランドに併合させるなど、 ポーランドはソビエトの国境問題に関わっていました。
カリーニングラード
(ケーニヒスベルク)
ドイツ領であったケーニヒスベルクはポツダム会談により、ドイツ敗戦後にソビエト領カリーニングラードとなりました。

冷戦後にカリーニングラードに隣接していたリトアニアがソ連から独立したことにより、カリーニングラードは飛び地となってしまいました。
また、一時はカリーニングラードをポーランド領とする案も有りましたが実現することはありませんでした。
サン・ステファノ条約に関連するロシアの領土問題 1877年の露土戦争後に結ばれたサン・ステファノ条約により 「アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、アナトリア東部の一部地域(バトゥミ、カルス、アルダハン、バヤジト地方)のロシアへの割譲」 などが盛り込まれました。

後の1878年6月のベルリン会議により、ロシアはバヤジト地方を放棄しました。
 

 







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